ミャンマーレポート<2009/7/18〜25>

ミャンマーレポート

<2009/7/18〜25>



いまじん中川戸田店
森岡美奈子


■ミャンマーの位置
中国・タイ・ラオス・ブータン・バングラディッシュが隣接する位置にあります。




■スケジュール

7月18日 タイ・バンコクを経由して、ヤンゴンへ

7月19日 ヤンゴンからマンダレイへ
       ザガインの慰安碑参拝
       ワチャ病院見学

7月20日 マンダレイからヘーホーへ
       タンポジの農業研修所見学
       タウンジーのマーケット見学

7月21日 保育園の完成セレモニーに参加
       インレイ湖へ
       織物工場見学
 
7月22日 ヘーホーからヤンゴンへ
 
7月23日 日本語学校「もみじ」見学

7月24日 孤児院慰問

7月25日 バンコクを経由、中部国際空港着


予定の合間にパゴダ(寺院)参拝



【7月18日】
中部国際空港からバンコクを経由し、ミャンマーへ。飛行機のチェックインや乗り換え時間を含めるとほぼ一日かけての移動になりました。
まず驚いたのはヤンゴンが「普通に」都会だということです。事前に読んだ本が吉岡先生の「飛べない鳥たちへ」と「ビルマの竪琴」だったため、私の中のイメージでは、ミャンマーはすっかり山や沼。戸や窓ガラスがない原始的な家や、水道をひねれば茶色い水、蚊が飛び、蛭がはびこり、日本で暮らす私たちにとって衛生面がとにかく心配される所というイメージでした。
しかし実際は舗装された道路を超高速で車が駆け抜け、夜9時の街はまだまだ人に溢れ(ミャンマーは道路脇で座ったり喋ったりしている人がとにかく多いです。屋台や露天市場があるからでしょうか。)オフィスビルもファッションビルも、壁に大型テレビがついているビルあり、ホテルも日本と全く変わらない明るく綺麗で清潔なものでした。
都会であることや高級ホテルに滞在したことも影響しているとは思いますが、ミャンマーは皆さんの想像以上にずっと快適で文化的な国であることは保証します。

【7月19日】
朝食後すぐにヤンゴンから国内線でマンダレイへ。
空港からはチャーターしていた車でザガインへ向かいました。ザガインへ向かう車中ではようやく「ミャンマーらしい」風景に出会えました。平地に整然とすっきりとした感じで木が生え、その林の合間に家があったり、道路脇では露天市場が延々と並んでいたり、牛車がゆったり作物を運んでいたり平和そのものです。

ザガインのインパール作戦戦没者の慰安碑を参拝するために、この旅一つ目のパゴタへ。
パゴダ内は土足厳禁です。靴を脱いではだしで歩きます。履物はどうするのかと不安に思っていると、ガイドの女の子カインさんは「上のお店に置かせてもらいます」と一言。あとでお金を取られるのでは、他の参拝客に靴を盗まれるのでは、と若干不安になりましたが、全て杞憂に終わりました。参拝者はみんな当たり前のようにそこに靴を置いていくようです。帰るときに「有難う」と一言言えばOK。こういったゆるさというか平和さにはほっと心が和らぎます。
 慰安碑を参拝していると、この慰安碑を代々担当しているという方から参拝者記名帳への記入をお願いされました。日本の慰安碑に現地の方の担当者がついているとは思いもしなかったので驚きました。こういった方のお陰で、慰安碑やその周りは綺麗に整えられていたのでしょう。
この方の話ではどんどん参拝者が減っているとのこと。近藤さんからいただいた資料にもありましたが、異国の地の慰安碑というものは、遺族、関係者らの高齢化などの原因により、今後誰が維持し、保護していくのかが問題になっています。今の平和な日本をもたらすために犠牲となった方々のことを決して忘れることなく、今一度感謝の気持ちを見つめ直す時がきているのではないかと考えさせられました。

インパール作戦の慰安碑を後にし、そのままジャパンハート吉岡先生のワチャ病院へ。  
多忙な吉岡先生ですが、長時間私たちのために時間を割いて下さりました。なぜミャンマーだったのか。この国で日本人が医療行為を行う難しさ、問題点。また、ジャパンハートの今後の展望、若いスタッフがなぜ集まるのか等ひとつひとつの質問に丁寧にしっかりと答えて下さりました。
丹羽さんのお嬢さんである由理奈さんから出た、「死ぬまでにやりたいことは何ですか」との質問には、その後も続いていく活動のためのしっかりとした基盤、形を作り上げることを挙げられました。そしてミャンマーに尽くすのではなく、最終的には日本に返るような活動でありたいということも話しておられました。
本を読んだときのイメージよりは親しみやすく感じられましたが、気圧されるほどの強い思い、信念を持たれた方でした。近くにいるだけで自分の生き方・考え方を見つめ直してしまいそうになります。迷いを断ち切ってくれるほどに強い言葉を下さります。多くの若者たちが吉岡先生のもとへ集まってくるのが分かりました。

病院内で手土産にしたお菓子を入院中の子供たちに手渡しで配らせていただきました。時間帯なのか、たまたまだったのか、どのお子さまたちもご両親と一緒でした。もしそれが国柄によるものだとしたら、日本にとって学ぶべきところだと言えないでしょうか。
後日、由理奈さんは、ミャンマーに行って感じたこととして、「人と人との距離が近いこと」を挙げてくれました。実際私も誰かに道を尋ねて、それに答えている場面を目にしたときや、ガイドの女の子が「とても厳しいけれど、とても尊敬している。大好き。」と何度も家族について話してくれたことなどから、そういったものを感じていました。特に家族の結束の強さについてはあらゆる場面で何度も感じたものでした。「厳しい。とても怖い」と言いながら、それでも「大好き」と言えるなんて、私にとってドラマや漫画の世界だけのことのように思えます。この国の親から子への接し方、また国の持つ「年長者への尊敬の念」等といった風習は、とても素晴らしいものなのではないでしょうか。

 外国人が珍しいというのもあると思いますが、院内を歩いていると、扉や窓枠から身を乗り出して私たちの一挙手一投足を微笑みながら見つめる女の人たちもいて、ミャンマーの方々の警戒心のなさ、純粋さがとても印象に残りました。ミャンマーの人の笑顔って本当に純粋で、とてもとても綺麗なんです!
吉岡先生や病院の方々に別れを告げ、最後に丘の上の慰安碑へ。
日本人の建てたパゴダもありました。この丘から見渡す景色は素晴らしく、自然と会話も「こんなところにお墓を立ててもらったら幸せだよね〜」「いや、私はこういうところから灰をまいてもらいたい」などという話題に。参拝している間に日はすっかり落ち、ライトアップ効果でますます美しい景色を見ることができました。




【7月20日】
朝食もそこそこにすぐ出発し国内線でヘーホーへ。ここでもチャーターした車に乗り換えて、タンポジの農事試験場を見学させていただきました。


この試験場は、佐賀県を本拠地とする「地球市民の会」というNPO法人がサポートして運営されています。ここにある研修所ではミャンマーでいう9年生、10年生(日本では高校1、2年生。16、7歳)の生徒が住み込みで農業を学び、6キロ離れた学校に通っています。朝4時ごろ起床し、家畜の世話や農業をし、7時ごろ学校へ行き、帰宅したらまた仕事。夜は1時位まで勉強しているのだとか。いくら若いとはいえ脅威のスケジュール。ちなみにこの試験場に入るにも60名の受験生から各学年8人にまで絞るというのだからかなりのエリート揃いです。留年なんてもっての外です。
ミャンマーの人というのは本当に勤勉です。公用語はビルマ語ですが、英語は喋れて当たり前。なぜかというと高校から授業は全て英語になるため、英語が使えなければ話にならないそうです。日本も第二言語として英語を習いますが、その差は歴然ではないでしょうか。
英語を使いこなすから、次に日本語、フランス語、中国語など第三言語の習得を目指します。塾の掛け持ちも当たり前。どんなに貧しくとも教育にはいくらでもお金をかけるそうです。ちなみにミャンマーの先生のお給料は月4千円。地域や職種にもよるとは思いますが、年収1万円から5千円のところもあり、インフレの影響で物価が高騰した昨今、共働きが主流になってきているようです。大して勉強できなくても企業に勤めて一端の給料が貰えるなんて、ミャンマーの人から見たら日本は不思議の国でしょう。ミャンマー滞在中何度身につまされる思いをしたか分かりません。
ミャンマーの識字率は89%。男性だと93%だそうです。そもそもどうして学校へ行くのか、勉強するのかというと、お釈迦様の教えを学ぶためだそうです。ミャンマーの人々の信仰熱心さからは学ぶことが多いです。

地球市民の会による農事試験場がどうして設置されるに至ったか。昨今ミャンマーにも農薬が普及してきたそうなのですが、ミャンマーの人々はその危険性を知らず、ただ良いものだと信じて使ったり、直接農薬を腕で混ぜてしまい、腕を切断せざるをえなくなってしまったりすることがあるそうです。そして何より重要な収入源である農作物が、どんどん買い叩かれているという現状です。地球市民の会柴田さんは、「有機栽培した作物を作ることで付加価値をつけることができる。作る側にも食べる側にも安心安全な有機栽培がこれから重要になってくる」といいます。ただ一時的に金銭的な援助をするのではなく、ミャンマーの人々がこれから生きていくために糧となる能力を伝授していきたいという在り方には感銘を受けました。援助や支援という言葉は、本来こういった活動を指すべきではないでしょうか。
この国においては、活動内容ではなく、使った金額(建てた建物など)によって活動の評価が決まるそうです。それってなんだか悔しいです。こんなに立派な活動目的があって、多くの人から感謝されているのに、そこに価値を与えてもらえないだなんて。そもそも社会貢献とは評価されるために行うものではありませんが、評価は活動を行ううえで活力源にもなるし、そして何より、その地域での活動範囲だとか、より広い活動のための権限を得られるとか、そういった効果も期待できるものです。外国において、なんの評価もされない活動がいつまでも行えるものでしょうか。最悪出て行けと言われる可能性だってあるわけです。だから頃合いを見て施設を建てるとか、「貢献」していることを形として残さなければならないのです。吉岡先生の病院でも感じたこと。心だけでは行えない、その地域のことを知り、例え考えを曲げることになっても、譲歩し、地域に合わせ、共存していくスタイルを築きあげていくことが必要とされるのです。
次の日幼稚園の開所式に向かう車中で、柴田さんが一面に広がる畑を見ながら、「この辺りは葉巻の原料を多く栽培する地域だけれど、気候や地形的にはお茶がよく合うと思う。お茶畑にしたい」と語っていたのが忘れられません。葉巻の原料は大量の薪や化学物質を使うので森林環境的にも問題があり、また、切っても切っても生えてくるので地力も奪ってしまいます。村の人たちも本当はやめたいけれど、値段がいいし、何代も何代もそればっかり作ってきたから、今更他のものを作ろうと思っても作り方がわかりません。だから誰かが作り方を伝えていく必要があるのです。柴田さんたちの活動はシンプルでいて、だからこそとても本質的な、素晴らしくて、価値のあるものです。




【7月21日】
思い起こせばメインイベントだったのではないかと思えるパオ族の保育園の完成セレモニーがありました。村に入ると雨だというのに村中の人たちが総出で花道を作り、太鼓を叩き、私たちを迎え入れてくれました。写真右中央の白いバスが私たちの乗っていた車です。(運転手さんとその助手の方に、ナタラという現地の役人の方、柴田さん、カインさん、私たち3人の計8人のためにこのバスはチャーターされているという・・・なんとも贅沢な旅でした。本当に。)

  保育園の子どもたちから花束もいただき、あまりの歓迎振りに感極まって思わず涙が溢れました。
 
肝心の近藤さんが不在だったので、何もしていないのに豊友会代表として熱烈な歓迎を受けることになってしまいひたすら戸惑ってばかりでした。歌あり、舞いあり、ご馳走ありで精一杯のおもてなしの気持ちを感じられ、本当に貴重な体験が出来ました。あそこまで崇め奉られることは、私の人生ではもう二度とないと思いますし、同じ体験ができる人も世界にそうはいないと思います。

下の写真は式の様子です。代表として挨拶して下さった安江さん(写真左)と、それを通訳してくれたガイドのカインさん(写真左の中央の方)。

舞いは若い女の子と男の子がペアになって踊るものでした。フォークダンスみたいなものでしょうか。恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべながら踊る姿が可愛くて、可愛くて!ドラム隊の方々も雨やら人に紛れてしまって・・・本当に、本当に、凄い数の人でした。
セレモニーのあとは村のとあるお宅へお邪魔して、お食事をいただきました。決して裕福とは言えないであろう村での精一杯の歓迎、とても有難いものでした。
資金が集まり、地球市民の会の柴田さんがどこの村に援助をするか視察した際、ほとんどの村が「やってくれ。やってくれ」と言うのに対し、このパオ族の長だけが「パオ民族が自分で立てなくなる援助ならしないで欲しい」と答えたそうです。その言葉を受けて、この地に保育園を建設することが決まりました。そんなパオ族の方々だからこそ、これだけ私たちのことをもてなしてくれたのではないかと思います。

食事のあとに以前の幼稚園を見学させていただきました。外観の撮影はしていなかったのですが、床は写真左の通り、下の地面が透けて見えます。弾力のある柔らかい素材ですが、やっぱりちょっと耐久性には不安が・・・。雨が降れば雨漏りもしたのではないかと思われます。写真の明るく光っている部分は全て壁のない部分。カゴで編んだ家のようで可愛らしくはあるのですが、毎日勉強をするには不都合が多かったと思います写真右の中央が黒板です。窓はこの素材をそのまま切りっぱなしにした、という感じでした。かなり開放的です。
下が新校舎の外観とその壁です。
床には絨毯も敷いてあったし(セレモニー用だったのかもしれませんが・・)、もう雨や風が入り込むこともないでしょう。黒板も大きくなっていました。壁の横にちらりと移りこんでいますが、窓には格子もついています。
大満足大感激だったパオの村を後にし、後ろ髪引かれながらも宿泊先のインレイ湖へ移動しました。バスを降り、舟での移動です。

写真左がホテル。写真右の舟は手でこぐタイプですが、私たちが乗ったのはエンジンがついていて、かなりいい速度でまっすぐ快適に走る舟でした。
船酔いを心配していましたが、清清しくていくらでも乗っていたい!と思わせるほど爽快な乗り心地でした。私には淡路島へ向かうために過去何度も乗ったことのある日本の普通の船よりはよっぽど気持ちよかったです。ここで雨が降らなかったことが一番のビギナーズラックでしょうか。


湖に浮かぶ美しいパゴダを見学しました。中の仏像は参拝者たち(といっても祭壇に上がれるのは男性のみ)が塗り固めていった金で雪だるま状態に。仏像の面影はありません。

次に湖上村を見学しました。

織物工場では糸を染めるところから始まり、時間も手間もたっぷりかけて1つの作品を作ります。蓮の茎の糸を用いたものでは、本当に蓮を切って中の繊維を取り出し、製糸するところから始まります。上の写真右の方が、手に持っている緑色の蓮の茎から伸びている白い繊維状のものを、織物の糸に使えるまでに製糸していくのです。気の遠くなるような作業です。実際に蓮の糸で織られたものを購入しましたが、かなりしっかりしていて、少し麻に近い手触りです。吸水力も良いとのことでした。ミャンマーではお坊さんの袈裟に用いたりするそうです。近藤さんはこの蓮の織物を日本に輸出し、ミャンマーの方々の収入源にできないかと考えておられるようです。




【7月22日】
ヤンゴンへ。
ここに来るまでの間にたくさんのパゴダを見学する機会に恵まれていましたが(どこに行っても必ずあるといっていいくらい、ミャンマーにはたくさんの様々なパゴダがあります。一日にいくつも見学していました。)、これほど大きなパゴダが他にあるだろうかと思わせるほど立派なシュエダゴンパゴダを見学しました。
生憎の雨でしたが参拝客はかなり多く、雨だというのに構わず正座し一心に祈りを捧げる人の姿も見られました。

また、ミャンマーでは仏像の頭の周りを赤や青、緑などのカラフルな電飾で飾る風習があるようです(後光を表現しているのでしょうか)。パチンコ屋か!と思わせるような電飾に初めは面食らいましたが、いくつもの仏像を見ていくうちに段々それが神々しく、有難いものに思えました。後日ガイドの女の子カインさんのお爺様の家を訪れて知りましたが、自宅にある仏壇もクリスマスのように赤や緑の電飾で飾りつけられていました。




【7月23日】
日本語学校「もみじ」へ。日本の雑誌、コミック、DVDなどが図書室に置いてありましたが、本棚に「ピーコ伝」やストーンオーシャン(12巻のみ)が・・・衝撃的でした。

近藤さんの知人ウィンミンさんのご招待を受け、お宅にお邪魔しました。7歳のお孫さんが英語ぺらぺらで妙な危機感を覚えました。私たちに気を遣ってか、家族間での会話も英語でされていました。私にはちんぷんかんぷんだったので申し訳なかったです。ミャンマーに来てからというもの、母国語の他に英語が喋れるのが当たり前のような錯覚を覚えます。




【7月24日】
ガイドの女の子カインさんの好意で「もみじ」とは別の日本語学校「WIN」にもお邪魔しました。日本語学校の先生方、吉岡先生の病院にいる日本人スタッフ、地球市民の会の方含め、23日、24日の2日間滞在したホテルのマネージャーも日本人で、ミャンマーなのに想像以上にたくさんの日本人と出会え、こんなにもたくさんの話を聞ける機会があるとは思っていなかったので嬉しかったです。たくさんの機会に恵まれたのに、今思い返せば気の利いた質問もできず・・・。普段あまり後悔はしませんが(ネガティブなだけで)この旅ばかりは「もっとああしていれば」「〜できれば」などがあるように思えます。時間はいくらあっても足りないですね。

前日に引き続き近藤さんの知人ウィンミンさんが付き添って下さり、孤児院を慰問しました。たくさんの犬や猫が教室や校舎の中に当たり前のようにいて印象的でした。


寄付金をお預かりしていたので、ここでも丁重にもてなされ、全校生徒がお礼の祈りを捧げてくれました。

日本から持参した記号やアルファベットをなぞるだけで書けるようなつくりになっている定規や、あやとり用の毛糸と本、リコーダーなどをプレゼントしました。相変わらず安江さんには頼りっぱなしでしたが、ここでの由理奈さんの活躍もまた素晴らしかったです。リコーダー演奏やあやとりの妙技!本当にマジックを見ているかのようでした。
普段あまり子どもたちと接する機会はありませんでしたが、孤児院を後にするとき、教室や廊下でいつまでも手を振ってくれていたこと忘れません。目が合うとパッと笑顔になったり、手を振ってくれたり、いうなればまるでアイドルにでもなったかのような錯覚をここでもまた感じました。いや、アイドルというよりは皇族の方が近いかもしれません・・。

孤児院を出るとすぐ近くにあったウィンミンさんの工場を見学させていただきました。日本に輸出する材木を作っているそうです。しかしここにも不況の影響が出ており、工場の半分は稼働していない状態でした。この周辺は工場地帯なので、日本の工場もたくさんあるとのこと。ミャンマーには意外と日本が存在しているようです。

最後にカインさんのお爺さまのお宅へお邪魔させていただきました。
お爺さま、お婆さま、2人のおばさま方やカインさんのお母さままで。
本当に家族総出で歓迎して下さいました(お父さまも本当は来たかったけれど来られなかったとのこと。恐縮です。)。美味しい手料理にお菓子やフルーツ。カインさんにはお世話になるばかりで、彼女がいなければミャンマーにいることさえ困難だったかもしれないのに、こんなにしていただいていいのだろうかという気持ちでいっぱいでした。もう返すにも返しきれない程の恩です。
そのままカインさんとカインさんのお母さまには付き合っていただき、途中空港近くの大型スーパー(ショッピングモールに近いです)で最後におみやげを大量に買い込みました。このスーパーが広くて、広くて!アメリカのスーパーマーケットもこんな感じかな〜と思いました。あれが海外のスーパーなのでしょうか。衣料品やCD、化粧品もあり、日本の化粧品がたくさん大きく販売されていました。中島美嘉のポスターもバンバン貼ってありました。日本の化粧品売場と全く同じです。
そして空港へ。入国の際は持ち込めたものが何故か出国時のチェックではどんどん引っかかり、没収されるという不思議な出来事もありましたが、無事帰国しました。




旅を終えて
ミャンマーは想像以上に人情溢れるあたたかい国でした。
近藤さんや地球市民の会の柴田さんの功績も大きいとは思いますが、「今日から私たちは家族になった」という言葉を何度もかけていただきました。
私たちが訪れる日にはたくさんの料理や果物でもてなしてくれました。義理や義務ではなく、本当に心から私たちを歓迎してくださっていることが伝わって、何度も感動し、感激しました。そしてそれをこちらも喜んで受け入れなければ残念そうにされてしまうところが、まるでおじいちゃんやおばあちゃんの家に行ったときのような感覚を思い出させました。かまいたくてしょうがない。もっとわがまま言ってくれていいのに。遠慮はしないで。そういった懐の深さを何度も感じました。本当に有難いことです。
事前知識としてミャンマー人のおもてなしの心は知っていたものの、ホテルはもちろん地元の人が食べに行く麺屋さんに至るまで、まさかここまでとは!と思わずうなってしまうくらいに行き届いた細やかな気遣いを見せてくれました。しかも「サービス」だと思わず、「当たり前のこと」と感じている部分が大きいように感じられました。「接客ってのはこんなものだ」というハードルがとても高いところにあるのです。レディファーストも徹底されています。
この「おもてなし」に触れるだけで十分ミャンマーへ行く価値はあります!至れり尽くせりすぎて「チップがいるのかな・・?」と戸惑う場面が何度もあったほどです。(チップといえば一番驚いたのがトイレにいるお姉さんでしょうか。空港にもスーパーにもいたのですが、この方々はどうやらトイレを守るためだけに雇われている人のようです。トイレに入る直前に便座をふいてくれたり、手を洗ったあとにティッシュを差し出してくれたりします。最初はチップ目当てかと戸惑いましたが、ミャンマーではそれが当たり前のようです。チップを払ったのはホテルで荷物を運んでもらったときと、チャーターした車の運転手さんくらいでした。あとは全て無料のサービス。「おもてなし」です)
また、ミャンマーの人々の勤勉さには毎日驚かされてばかりでした。いい刺激を受けることが出来ました。普段日本にいては気づけないこと、または分かっていたつもりで本当には理解できてはいなかったことにたくさん気づくことが出来ました。実際にミャンマーへ行って「理解」と「納得」を実感することができました。戸田店の方々には不在の間ご迷惑おかけしましたが、得るものは多かったと感じています。あとはこれを活かせるよう行動に移すのみ。「おもてなし」と「学び」をキーワードに新しいことにどんどんチャレンジしていきたいと思います。



番外編 〜安江より〜
森岡さんのレポートを最後まで読まれた方は、すでにミャンマーにいったような錯覚を覚えられたのではないでしょうか?
近藤さんの「ミャンマーは今雨季で、雨だぁだぁだわー」という言葉に怯みつつ、虫や蛭がいたらどうしよー!と大変危惧していましたが、行ってみれば道路は結構な田舎でも舗装されてるし、車は驚くほどの速さでビュンビュン飛ばすし、日本より雨は降ってないし。。。念入りに準備した雨具が全てお荷物と化してしまったほどです。
食べ物も始めは恐る恐る食べていましたが、口に合うとわかると、ちょっと頼みすぎじゃない?ってな具合に、調子に乗って食べていました。そのお陰で「ミャンマーダイエット」は確実に失敗に終わりました。
ミャンマーに行ってみて若干後悔した事は、「地味な格好にするんじゃなかった」「もっと英会話を身につけておけばよかった」という事でした。ミャンマーの方々は結構キラキラ好きで、アクセサリーも服も髪型も、お坊さん以外はおしゃれに気をつかっているし、どこに行っても英会話が飛び出してくるし。。。こんなはずじゃなかったと何度思ったことかわかりません。
私達三人は、普段なら本当に有り得ないようなTVの「旅+ドキュメンタリー番組」的な事を、自分たちの思惑とは裏腹に近藤さんのお陰?で体験できた次第です。また、多くの志ある日本人の方々にお話を伺ったのですが、皆さん自然体で生き生きされていたのが印象的でした。ご苦労はやはり多いようですが、それよりも自分が誰かに何かできる・残せる喜びに満ちているという印象を受けました。
順調にいけば近藤さんと最後までお供する予定でしたが、近藤さんのお義父様のご訃報を受け、20日に近藤さんとは離れ離れとなりました。以後、通訳のカインさんや現地でサポートしてくださる方々に頼りつつ、近藤さんの居られない心元なさと開放感を味わいつつ、ちょっぴり逞しくなって無事この旅を終えることができました。
きっと、次にミャンマーに行かれる方にも素敵なドラマがあると思います。是非、心温かい人達に会いに行かれませんか?

- | comments (0) | trackbacks (0)

Comments

Comment Form
icons:

Trackbacks